自然に生える草

自然とともにあるシンプルな暮らし、庭づくり、ランドスケープ、建築。

徒然草 第十段 家居のつきづきしく 庭は主人を表す

 

徒然草の第五十五段 「家の作りやうは」は、家の作りに関する記述として有名ですが、第十段の「家居のつきづきしく」は、庭に関して述べられた文で、今の時代に読んでも新鮮で、共感を呼ぶ興味深い一節です。

 

 

「家居のつきづきしく 、あらまほしきこそ 、仮の宿りとは思へど 、興あるものなれ 。よき人の 、のどやかに住みなしたる所は 、さし入りたる月の色も 、一きはしみじみと見ゆるぞかし 。今めかしくきらゝかならねど 、木だちものふりて 、わざとならぬ庭の草も心あるさまに 、簀子 ・透垣のたよりをかしく 、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ 、心にくしと見ゆれ 。

 

多くの工の心をつくしてみがきたて 、唐の 、大和の 、めづらしく 、えならぬ調度どもならべおき 、前栽の草木まで心のまゝならず作りなせるは 、見る目もくるしく 、いとわびし 。さてもやは 、ながらへ住むべき 。また 、時の間の烟ともなりなんとぞ 、うち見るより思はるゝ 。大方は 、家居にこそ 、ことざまはおしはからるれ 。」

 

対訳:三石由紀子「これで読破!徒然草

 

家がその主人に似つかわしく理想的なのは 、人生は仮りの宿だとは思うものの 、感興がわく 、良いものである 。品位のある人がゆったりと暮らす住居は 、差し込む月光の色も 、格別にしみじみと見えるものだよ 。当世風でもなく 、きらびやかでもないが 、庭の木立が時を経て 、自然のままの庭の草も趣きがある 。簀子と透垣の続き具合に情趣があり 、調度品にも昔風の趣きがあって落ち着いているのが奥ゆかしく感じられることだ 。

 

その一方で 、大勢の木工達に意匠の限りに飾り立てて造らせ 、やれ中国の 、やれ日本のと 、珍奇で見事な道具類を並べて置いたり 、庭先の植え込みの草木にまで自然の趣きを無くすほど手を加えているのは 、見た目も厭わしく 、やり切れない思いがする 。そんなことをしたからといって 、一体いつまで住めるというのか 。全ては一時の事で 、すぐに煙となって消えてしまうのにと 、見てすぐにも思われることだ 。大体 、住居を見れば 、その主がどんな人柄か 、見当はつくものだ 。

対訳:三石由紀子「これで読破!徒然草

 

「自然のままの庭の草も趣がある」・・・やはり、そうですね。私もそう思います。

 

庭は、住人を写す鏡なのかもしれません。

 

手入れの行き届いた庭は、綺麗好きで几帳面な方がお住まいなのかなと思い、ガーデナーを雇えるような経済力があるようにも見えます。一方でゴミが散らばっていたり、セイタカアワダチソウやクズがはびこっていると、ゴミがあっても気にならない人なのかと思われたり、廃墟なのかと思われるでしょう。

 

私も、草取りをさぼっているとたちまち草に覆われて、うらぶれた印象の家になってしまいます。

そんな時は、庭は住人を写す鏡であることを思い、草取りの時間を作るようにします。

時間がもったいないように思う時もありますが、草や土の匂いを嗅ぐだけで気持ちが良く、ボサボサした庭がスッキリすれば、気分もスッキリするし、運動にもなるし、遊びに行って散財することもなくなります。

庭仕事の後、風呂に入って、和室でくつろぐ時の気持ち良さったらないので、ホントは頻繁にやれば良いですよね。なかなかできませんが。

 

自然の趣を出すには、ほどほどに、手入れをするぐらいでも良さそうです。

 

「庭先の植え込みの草木にまで自然の趣きを無くすほど手を加えているのは 、見た目も厭わしく 、やり切れない」と、兼好法師も言っております。

 

ほどほどの、美しさ、自然に生えてくる草を生かした、微妙なさじ加減の庭づくり。それが私の好きな庭です。

品位のある人がゆったりと暮らす住居には、まだまだ及もしませんが、それを目指したいものです。

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ブルーベリー、ラムズイヤー、アスパラガス、シロタエギク